特講:間テクスト性よりサブカル界隈を斬る

はい、皆さんおはこんばんちわ、ザッキーでございます。

どっかの嘘をついたら鼻が長くなりそうなやつから補足を書いて欲しいという要望がございましたのでいっちょ書きましょうかね、というのが今回の執筆動機であります。内容はたいらさんによる「サブカル界隈について間テクスト性より考察する」という発表の受け売り&自分の解釈を交えながらというところです。

端的に言ってしまうと「最近のサブカルって薄っぺらくね?」といった感じですかね

※以下長文、批判的要素を含みます

というわけでまずは間テクスト性とはなんぞやという説明から

基本、コンテクストに対して間テクスト性が発現します。コンテクストというのは作品そのものずばりを指します。それに対しての間テクスト性は諸説はありますが、メタファーやパロディなどの他テクストとの関連性のことを指します。「Aって作品面白いよね」というのはコンテクストについて語っており「いやAはBのパクリだろ」っていうのは間テクスト性について言っています、多分。(Wikipedia見たほうが早いですここらへんは)

というわけで、おそらく理解はされてないでしょうが、話を進めていきますと、昔の文学作品はこの間テクスト性を多分に含んだ作品が多かったというのがあります。「作品の最小単位は記号的集合=キャラクタではなくコード=先代があるからこそ成り立つお約束的展開にある」とあるように、文学作品は先代の表現方法を用いた作品が認められ、その点が評価される傾向にありました。(表現技法は全てシェイクスピアの時代に生まれたという言葉はこういう側面を言い得てますね)ファウスト世代(西尾維新など)がこの時代ですね。

それに対して現代小説の代表的存在である村上春樹やライトノベルで言うと「涼宮ハルヒの憂鬱」の登場によってこの風潮は収束に向かいます。「娯楽としての読み物」としての側面を強めるため、今までの間テクスト性に焦点を当てず、キャラクタに焦点をあて如何に魅力的なキャラを生み出すかというところにサブカルチャーが動き始めます。キノの旅のような一種の教訓話的側面などを評価されることは少なくなり、豊かなキャラクタ性=魅力という認知が強まっていきます。その一方で作品背景やその他との繋がりといったものは次第に少なくなっていきます。

そして間テクスト性の主体も変わっていきます。以前の作品において間テクスト性は主に読者側が作品中に見出し議論するものでした(エヴァと新約聖書の関連性など)しかし現在においては間テクスト性の主体は読者でなく筆者に委ねられているのではないか。読者が考えうる要素が減少し、その主体は筆者に委ねられ筆者自身が提示していくものになったというのがたいらさんの主張でした。(逃げ)パロディならパロディだと堂々宣言するあたりがそうですよね。

そしてこ間テクスト性の主体性の喪失とキャラクタに焦点を当てたことでその他作品自体が深みが失われた結果、私たち批評自体も薄っぺらいものに陥っているのが現状だという指摘でした。間テクスト性が減っていくことで東氏や宇野氏といったサブカル評論家が行ってきた「作品外との関連性」(エヴァのヒットと当時の社会情勢など)に関して批評する気がなくなってきた、もしくは作品自体がそのような批評法に対して耐えられない。そのため現在のアニメの感想は「○○カワイイ」「うおおおおお熱いなぁ!」といった表層をなぞっただけのものになってきている。

そして表層をなぞっただけのものであるがために、ファウスト世代において間テクスト性を感じるにおいて必須とも言える「先代の知識」などといったものが不必要化し、コンテクストさえ知っていれば、あるいはコンテクストを知らなくても批評たり得てしまう現状があるという指摘でした。「この金髪ロリカワイイ!」というのは作品自体を知らなくても言えてしまいますよね最近は。

 

さてせっかくですので、コレに対しての私の考えを。

この表層をなぞるだけの批評の誕生には大きく「オタク」というものの変質が関わってきていると私は感じました。ファウスト世代のオタクというのは当時はまだあまり人権を持っておらず、周りを納得させるには周りを納得させるだけの材料が必要でした。そのため、当時のオタクたちはその材料を「間テクスト性」に求めたため、作品も間テクスト性を多く含んだ作品が評価されるとともにその作品群が大きく伸びていきました。

しかし、オタクカルチャーが社会現象化し人権を得るようになってくるとこの局面は変わっていきます。当時求めていた味方を手に入れたオタクは材料探しをする必要がなくなり、単純にコンテンツの浪費を始めたのではないでしょうか。エヴァを見て「この作品は旧約聖書が云々」とうんちくを語りだすオタクから「アスカたんツンデレ萌え~」といったオタクに変質していきました。もちろん、そのような評価によって作品が売れるのではあれば作品もそのような性質に変化していき、作品自体が間テクスト性を必要としなくなっていった、そして間テクスト性が失われたためにただ表層をなぞるしかない、現状を生み出している。そして仲間を見つけたオタクたちは仲間内で「あれいいよね~これいいよね~」といった言葉しか持てず、批評でもそのような側面が出てきざるを得ない。

「魔法少女まどか☆マギカ」に代表される現在においても間テクスト性を有する作品というのは存在しますが、記憶に残らなくてもただダラっと見れればアニメはそれでいい、という人が存在しているために間テクスト性の失われた作品は残るのではないか。そのように私は考えました。日常系アニメなんかまさに間テクスト性が失われているが民衆が集まっているジャンルですよね。

ザッキーさん自体が最近さきほど名前をあげた東氏、宇野氏といった間テクスト性を交えた(というよりそれについて論じた)批評を読んでいるので批評のあり方は本来そうでないのかなーとは思うのですが、作品自体がそのようなところから切り離された空間に進んでいっている現状ではそのようなものも難しくなってきているのかな…と思いました。

現在のリックス員がどのような批評を行っているか気になる方はぜひとも夏コミに出展予定の「りっくすの本14」を手にとっていただければと。現在鋭意製作中ですが

間テクスト性を主体に置いた昔の評論家気取りのものや作品の良さを熱く推す現代的評論も多種多様になりそうです(原稿チェックしながらヒィヒィ言いながら)

さて、長くなりましたが(文字数にして2500文字超!)このへんでお開きにさせていただきたいと思います。乱筆乱文にて失礼させていただきます。

P.S.お前が言ってることチンプンカンプンやぞ!と思っても僕を責めないでください(><;)全て俺に投げたきのっぴってやつが悪いんです!(責任転嫁

 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。